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受難の水曜日 説教:西川哲彌

2017年4月12日 関口教会

第一朗読 イザヤ50・4-9
福音 マタイ26・14-25

いよいよ明日から聖なる3日間という聖週間の頂点がやってきます。この月、火、水とその序章のようでありました。聖香油のミサが聖木曜日に行われて、明日、わたしたちは上の大聖堂で大司教様が司式される聖香油のミサで一年間、秘跡に使う油を祝別して全小教区、あるいは修道院の聖堂に配置します。我々は明日ですけれども、教区によっては遠くから司祭が来て、木曜日、聖香油のミサをやってそれからまた、自分の教会に帰ってということでは間に合わないので、その前日、今日、水曜日に聖木曜日に行われる聖香油のミサをやる教区がいくつかあります。札幌教区も広島教区もそうですし、あるいは横浜教区もそうです。また、大司教様が教区管理をしていらっしゃるさいたま教区も今日、聖香油のミサがあって、大司教様はこの足で宇都宮の教会に足を運び、そこで聖香油のミサをなさるということになっております。

さて、みことばを味わって参りましょう。イザヤ書50これはもうほんとにわたしどものいろいろなことがあっても、結局これだということが書いてあるわけです。それはイエスさまがお取りになった態度、なさり方が記されているからです。それはもう、何を言うこともなく、ことばはよくわからないけれども、無抵抗主義、されればされるまま、それに仕返しをしないという、それはなぜ仕返しをしないかというと、神様がいらっしゃるからです。わたしはかたときも忘れないことがいくつかあります。ひとつはやはりあの悲惨な広島の原爆です。わたしは満州から昭和21年に引き上げたものだから、直接に原爆を体験しておりませんけれども、広島で育って、それがどんなものであるかということをほんとうに痛いほど知っております。だから安易にそういう人間がコントロールできないもの、あるいは、やればとんでもないことが起こることに対して、やはり、これはゆるしてはならないという気持ちがわたしの原点です。福島もそのあらわれです。でも、何かやりたがっている北朝鮮もそうだし、シリアではあのような化学兵器が使われているし、キリスト教会が標的になっているようなところもあります。でもわたしたちは、どこかでそういう現実に、そういうことにまったく信じられない、それがどういうことなのか分かってやっているのかと言いたくなるようなことが行われようとしていることに対して、ただ、静観しているわけではないけれども、やはり、神さまに祈ります。その当事者に神さまが人を介しても、何を介してもよいから、つまらないことはやめろということをおっしゃっていただきたいし、また、まだまだそういうことが行われた尻拭いは、誰かを罰するということではなくて、やはり、受け止めていながら、そこから学んでいくという道、遠回りの道しかないということをわたしはよく感じます。70年経っても、まだ、あの広島の原爆で苦しんでいる人がたくさんいます。ベトナムでもそうです。人間の歴史のサイクルそして、神さまがなさる、教えながら、教えながら人間の心を啓発しようとしていらっしゃることをわたしたちは学んでいくわけです。でも、基本的には、無抵抗で、やるものに対して力で押さえるということはしません。神さまのみ旨がおこなわれますようにと祈りながらみております。それでよいと思っております。