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[コラム]いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか

シスター品川今日の聖書朗読のヘブライ人への手紙には、次のように書かれています。

 

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。

主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。

なぜなら、主は愛するものを鍛え、

子として受け入れるものを皆、鞭打たれるからである。」

あなたがたは、これを鍛練として忍耐しなさい。神はあなたがたを子として取り扱っておられま す。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛えられた人々に、義と いう平和に満ちた実を結ばせるものです。(ヘブライ人への手紙 12.5-11)

 

父親が子供を「鍛える」という言葉は、愛情を込めて子どもを育てる時のことばです。暴力行為を指していません。子育てには、母親の愛だけではなく、父親の持つ厳しさが必要だと言われています。現代は男女の境がなくなり、これまでの子育論は通用しないかのような時代に入りました。厳しいのは母親で、父親は何も口を挟まないとか、父親不在のケースも増えているようです。 このような時代に、人間として生まれ、箍が外れた者とならず、社会性を備えた、本来のその人の義の実が実るよう何を手伝うことが真に「鍛える」ことなのか、度々考えます。

この頃は、洋服も既製品が安く手に入るので仕立物を頼むことがなくなりました。自分で小さなものを必要に迫られて縫ったころには、裁断をし、しつけ糸でしつけをしたものです。面倒なしつけ無しで縫うと、歪みや攣りが出て綺麗に仕上がらなく、最後にアイロンでごまかそうと思っても無理だったことを思い出します。手を抜かない。順序良く手を賭ける。どんな小さなことの中にも「軽んじない」生き方をしたいと思います。生きるということは、気が遠くなる程先に向かっての単調な歩みを重ねることなのだと思います。この単調さも、忍耐し「鍛え」られる道程なのだと思います。

Sr.品川ヨシ子