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[コラム]義とされるには

三田助祭

[福音箇所 ルカ18:9−14]

今日の福音はわたしたちに「義とされるような祈り方、生き方」を教えています。ファリサイ派の人は徴税人を裁きました。人間は他人を裁く権利を持ちません。ファリサイ派の人は自分の努力によって自分に厳しく律法を守り、良い人間であることを強調しながら神に感謝の祈りを捧げました。この祈りもだめです。神にとってわたしたちが神の律法を守るのは当たり前であり、良いことをするのが当たり前なのです。神は全てご存知です。なにも良いことを強調する必要はありません。

徴税人はただ自分の罪を神の前にさらし出して神の赦しを願います。わたしたちも、まず自分の弱さを認め、全てをご存知の神に、全てをさらし出し、神に赦しを願います。

赦していただいたら何を祈れば義とされるでしょうか。あまり自分のための「お願いリスト」を祈る必要ありません。もし自分のためであれば、マリア様に倣って、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりなりますように」と祈るのが良いでしょう。そして、自分の信仰をより深くして頂く願いは義とされます。隣人のために祈ること(今なら「イラクとイスラム国との戦いにおいて170万人のモスルに住む市民が無事であるように」など)。世界の平和(特に「イスラム国が原子爆弾を持ちませんように」)。東北や九州の災害のために祈ること。新しい原発が世界に建設されないこと。

義とされる祈りは感謝と賛美の内に神の国を完成させるための祈りです。

 

三田一郎 助祭