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[コラム]列福式から帰ってきた

古郡神父

小さい頃、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」ということばと出会うたびに、嫌だなと思っていた。むしろクリスチャンだということで、右も左も打たれるそんないじめを受けるんじゃないかと、心配していた。「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」なんていう標語は、実現不可能なただの目標だ、そう思うことにした。そうして、なんとか折り合いをつけて生きてきた。

でもいつからか、聖書を読んでイエスの人生をゆっくり味わってみると、このイエスのことばはただの目標ではなかったのではないかと、そんな風に感じるようになった。これはイエスにとっての現実、イエスにとっての日常だったのではないかと。イエスは小さくされている者たちと生き続けた。聖書におけるイエスの生き方は、その点において一貫している。そしておそらくこういう現場と何度も出会ったのだ。支配者階級に属する者に右を打たれた小さき者が、反抗し、さらにボコボコにされているそんな様子を見て、イエスは右と左、2発で済んでよかった、また歯を食いしばって、立ち上がって一緒に歩こう、そういう風に声をかけたのがこのみことばだったのではないか、今はそのように感じている。

イエスは小さくされている者にいつも寄り添っている。イエスとつながって生きたいと望むわたしたちは、どのように生きていくべきだろうか。福者ユスト高山右近は、自分の領民の葬儀の際に率先して棺桶を担いだという。神道的な考え方の中で汚れを避ける普通の主君は、通常葬儀にも参加しなかったわけで、右近はその汚れを引き受けてでも、その人を、その人の生涯を受けとめて大切にしたいと思っていたということになろう。上から目線ではなく、人々と出会い、いっしょになって喜びを生きた新しい福者が、現代のわたしたちを励ましている、そんな風に感じられる列福式帰りの今だ。

 

古郡忠夫 神父