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[コラム]フジロックは富士山ではやらない

古郡神父

マタイにおける主の変容の福音のはじめ、イエスさまはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登られたとありました。聖書はどこの山かということは書かないのですね。名前のない山です。これが例えば、タボル山とかヘルモン山とか、まぁ富士山でも高尾山でもいいわけですが、そのように書いてしまうのであれば、タボル山、ヘルモン山、富士山、高尾山が尊いもので、あとはどうでもいいものという風になってしまうわけです。でも聖書は、そのようにしていない。山というのは、神様と人が出会う場所のことで、特定の場所を偶像化して讃えてるわけではないのです。 

山には名前がない。ここに大きなポイントがあるように思います。わたしたちも弟子たちのように恐れるし、理解しようとしませんから、優しい神様がわたしたちを強めるために、あるとき必要にちゃんと栄光のお姿を見せてくださいます。終わりのときの栄光、神様としっかりつながったときの素晴らしさをこの世の中でもわたしたちは垣間みることができるのです。でもそれはどこかというと、ある特定の場所ではないということです。

先日、夏休みをいただいて恒例の!?苗場フジロックフェスティバルに行ってきました。今回、ドラゴンドラというゴンドラに乗って、山の頂上にあるDay Dreaming and Silent Breezeというゾーンへ行くことを楽しみにしていました。それはDay Dreamingは天国!というツイートを今までたくさん見かけてきたからです。天国のような場所にわくわくしながら、いよいよそこへ降り立つと、大雨で寒いのなんのって。晴れの景色とはぜんぜん違う、天国とは似ても似つかぬそんな過酷な場所になっていました。

結局そこは天国ではなかったと落ち込むわたしに、イエスさまは、今日の現実の中でまさに今いるその場所こそが神様と出会う場所、天国のような場所となりうるのだと教えてくださっています。休みも終わって充電完了!たくさんの人と出会っていくこの夏、多くの出会いを通して神様との出会いも実現するのでしょう。

 

古郡忠夫 神父