HOME > お知らせ > コラム > [コラム]ちりめん問屋のイエス・キリスト

[コラム]ちりめん問屋のイエス・キリスト

古郡神父

教会の暦では、この主日が年間の最後の日曜日となり、来週からは待降節となって、新しい一年が始まることになります。ちなみに関口教会では、その新しい年の初めに広島教区の白浜司教をお迎えして黙想会を企画し、クリスマスに向けての準備をするのですが、わたしも同じ日に築地教会に呼ばれて黙想会とミサをさせていただくことになっています。思えば、ただ若くて物珍しいからという理由だけで、待降節や四旬節にはこれまで多くの教会に呼んでいただいてお話しをさせていただきました。

はじめての教会に行くとだいたいいつも皆さんに神父だと思っていただけません。神父ですと言っても本当かなって顔をされますし、ミサに来た青年の一人くらいに思われたり、ひどいところでは、久しぶりに来た高校生だと思われたこともありました。さっきまでその辺にいて、一緒に話していた普通のお兄ちゃんが神父で、ミサを司式しはじめたときのびっくりした顔なんかは忘れられません。ある意味で、水戸黄門のようなことが起こるわけですが、もしかしたら自分も同じようなことをしていないかと考えさせられたりもいたします。

イエスさまは「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことだ」とおっしゃいました。わたしたちが信じている神様は、どこか遠くにいて、遠くで見守っている、そういう神様ではありません。わたしたちと出会い、わたしたちに触れ、わたしたちと関わってくださる神様です。では、そんな神様とどこで出会えるかというと、わたしたちは神様はどこかきらきらしたところにおられる、カッコいいところ、美しいところにおられると思いがちですけれど、そうではないのだと教えられているのです。

イエスさまは飢えている人の所、のどが渇いている人の所に駆けつけ、旅をしている人、牢にいる人に寄り添っています。わたしたちが、目の前にいる小さな人と出会っていくときに、時間を裂いて、愛情を育み関わるときに、そこで神様と出会うことになるのです。わたしたちが日々の小さな交わりを大切にしながら、そこで受け取ることになる本当の喜びを生きられますように。新しい年に向かって、締めくくりの一週間を過ごしてまいりましょう。

 

古郡忠夫 神父