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―平和旬間― 目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ(ルカ12:37)

西川神父

今日の福音箇所では、イエスは主人と僕のたとえのなかで、来たるべき時にわたしたちが用意しておくことを教えています。主人の帰宅を待つ僕のように目を覚ましている時、「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席につかせ、そばに来て給仕してくれる。」(ルカ12:37)とイエスは語ります。主人と僕の関係は上下関係の中で一般的に考えていきますが、ここでイエスが語られる主人は当時の人たちの感覚の中ではありえない、僕たちに仕える主人の姿を語っていきます。誰にでもわかるようなアナロジーを用いながら、わたしたちが想像していく姿ではない主人のあり方が語られていきます。ここから主人に仕えること、目を覚ましていることの意味を受け止めていくことが大切なのでしょう。

教皇フランシスコが出された今年の世界平和の日のメッセージは「よい政治は平和に寄与する(仕えている)」というものです。そのなかで、教皇は「平和は、人々が責任を担い合い、支え合うことに基づく政治の偉大な計画の実りにほかなりません。しかしそれは、日々、取り組むべき挑戦でもあります。」と述べています。平和についてはカテキズムにおいても次のように強調されています。「平和とは単に戦争がないということだけではなく、また敵対者間の力の均衡を図るということだけでもありません。地上で平和を得られるのは、各個人の善益の養護、人間相互の自由な交流、個々人ならびに諸民族の尊厳の尊重、兄弟愛の熱心な実践があってのことです。」(CCC2304)

日本に暮らすわたしたちは普段何気なく平和であることが当たり前のように過ごしてしまいがちです。とかく政治を語ろうとすると、右だの左だのというイデオロギー的発想に終始してしまって、政治に向き合う議論さえも拒む風潮は教会にかぎらず学校や会社においても見受けられるものです。教会はどこかの政党を支援したりすることはありません。また、何かしらの政策を実現するための政治団体でもありません。ただ、政治権力は必ず腐敗すること、暴走することを歴史は物語っています。わたしたちひとりひとりが人格的存在として、神の似姿として、人権のうちにある思想・良心の自由、表現の自由において責任をもって語っていくことは自然なことです。そのなかで具体的に政治に如何にかかわるかはキリスト者個々の良心的判断・自由意志に委ねられています。しかし、「愛の反対は憎しみではなく無関心である」とコルカタの聖テレサ(マザー・テレサ)が言うように、無関心であったとき、わたしたちは見ざる、言わざる、聞かざるが最良の判断であるかのように錯覚していくのでしょう。自分で自由を放棄し、平和を創り出す能力を封印してしまうことが目を覚ましていることにはなりません。

教皇は出かけていく教会を強調しています。それは言うまでもなく宣教する教会であり、私たち教会の姿勢として“時のしるしを検討するつねに目覚めた能力”(「福音の喜び」51)をもつよう求められています。その能力を発揮することができるのは、教会に集うわたしたちひとりひとりが「目を覚ましている僕」の姿となっていくことがその土台となることでしょう。

かつて聖ヨハネ・パウロ2世教皇は1981年に訪日されたとき、全世界に向かって「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。」と訴えました。この平和アピールを受けて日本の教会の固有の使命として日本カトリック平和旬間が定められています。8月6日から15日の間、典礼暦で言えば、主の変容から聖母被昇天に至る期間、日本の歴史で言えば、広島への原爆投下から連合国へのポツダム宣言受諾に至る期間に、平和について学び、それを言葉にしていく中で、ともに祈っていくことがわたしたちの社会において平和を築き上げていくプロセスになっていくことでしょう。

この平和旬間を迎えたわたしたちひとりひとりが今日の福音の「目を覚ましている僕」となることができますように。また、今年は教皇フランシスコが来日する予定になっています。僕の中の僕である教皇フランシスコを兄弟愛のうちにお迎えすることができますように。

 

天本昭好 神父