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せきぐち – 2012年5-6月号

「新しくなる」

助任司祭 倉田厚

助任司祭 倉田厚関口教会に赴任して二年が経ったことにふと思い当たりました。濃密な日々だったためか、二年ということをにわかに信じがたく、教会報せきぐちのバックナンバーを手に取りました。振り返る意味も込めて。

そこには確かに関口教会と歩んできた日々が、綴られていました。行事や委員会の報告、訃報、文字から出会った方々のお顔が浮かんできました。会報のありがたさを感じつつ、読み返していますと、「新しくなる」という言葉が繰り返し使われていることに気付きました。それぞれの記事を照らしながら読み込みますと、その奥から、現状に対する問題意識が浮かび上がります。

ここしばらく、モヤがかかったように、すっきりしない日々を過ごしていた私に対して「新しくなるとは、なんと心得ている?」と神様が問うたように思います。

若者と読んでいる「ナザレのイエス」の中で、「イエスはそれ(罪から新しくなること)をする必要があったのでしょうか。」と洗礼者ヨハネからイエス様が洗礼を受けたことを教皇様は考察しています。

わたしたちの苦しみ、すなわち新しくなる必要を生きている苦しみを、傍観することなく、イエス様は共に味わい、担ってくださる。
自分は間違っていない、自分は正しいことを生きている。誰しもが願う自分の正当性を、イエス様はまことの意味で支えて下さる。

わたしたちは日々、自分の思い、言葉、行いを振り返ります。悪を行うこと、何かを損なってしまったことに罪の本質はありません。罪の本質は、感謝の忘却に他なりません。

今いただいている恵みを更に深く味わうものとなり続ける。素晴らしい恵みを十分いただき、できる限りを尽くしている。イエス様が共に居てくださるから、神様が支えてくださるから、わたしは喜びを生きているのだと、回心の連続から辿り着く。
新しくなるために必要とされることは、罪の自覚。すなわち神様が注いでくださる恵みを見失い、感謝の忘却に他なりません。新しくなるとき、恵みのうちに生かされている喜びを感謝する。

新しくされるということは、感謝の日々を生きるものになることに他ならない。現状になにかしらの不安を感じたとき、感謝という視点から見つめ直すことが一番大切なのだと思います。もっと感謝できるような交わりになっていきたい。それがわたしたち教会の願い。

わたしたち関口教会に、神様が恵みを注いでくださっていることに感謝すること。そして、この事実を福音として語ること。わたしにとって唯一絶対的に大事なことはこれです。
まだまだ新米の司祭にこそ、新しくなり続けることが必要です。みなさんと一緒に回心の歩みを続けられることにもまた感謝いたします。

皆さん、より深い感謝へと進み、日々新たにされてまいりましょう。神様が守り導いてくださっている日々に感謝しましょう。

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