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せきぐち – 2012年8-9月号

日曜信仰講座報告

助任司祭 倉田厚7月15日(日)に関口教会日曜信仰講座が開かれました。日曜信仰講座は、信仰理解と信仰生活を深めるために、年数回開催されます。今回、「主の祈り」について山本量太郎神父様からお聞きした概要を以下に記します。

どの福音も「主の祈り」に通じる

4世紀のテルトゥリアヌスという聖人が「主の祈り」は福音の要約であるという有名なことばを残していることを知り、どの日曜日の福音でも、そこからはじめて「主の祈り」を話すことができるようになることが私の生涯の課題です。福音の要約というからには、どの福音の箇所を読んでも、そこから「主の祈り」に入っていくことができるはずだと思い、いろいろな機会に務めようとしています。

福音から「主の祈り」を読み解く(7月15日福音:マルコ6・7-13)

今日の福音でイエスは12人の弟子を2人ずつ組にして遣わしています。6組の弟子が別々のところに派遣されました。行った先の村それぞれどういう1日を過ごすことになるのか、行ってみなければわかりません。たとえ隣の村に行ったとしても、今、何をやっているかわからないのです。その日、食事を取ることができたか、寝る場所はあったか、そういうことも考えずに捨て身で教えを伝えに行きなさいとイエスさまに言われましたから…。そのような中で、イエスさまは弟子たちに「主の祈り」を教えました。彼らはそれぞれの派遣先に行って、2人ずつ組になって、主の祈りを唱えたに違いありません。

「主の祈り」で大切なこと

「主の祈り」はすべて大切ですが、その中でも重要なことばは、「父よ」「み国」「わたしたち」の3つと教えられています。その中で一番多く使われていることばは「わたしたち」です。ある村に派遣された弟子たちは食事があったかもしれませんが、別の村に行った兄弟たちが食事を取れたかどうかはわかりません。そこで、弟子たちは「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ります。当時「わたしたち」とは一番狭く考えても、12人の仲間のことです。そのことを念頭において、「主の祈り」は最初の弟子たちの時代に唱えられたであろうと言われています。「わたし」ではなく「わたしたち」しかも「わたしたち」とは、今一緒にいるわたしたちだけではないということが「主の祈り」のとても大切なところです。「主の祈り」を一人で唱えるから「わたしたち」を「わたし」に置き換えて唱えてもよいでしょうか?「わたしたち」を「わたし」に置き換えた瞬間、「主の祈り」ではなくなります。それくらい、「主の祈り」にとって「わたしたち」は重要なのです。自分たちと一緒にいない仲間のことを思い、イエスの弟子たちが増えて行きました。そして教会ができ、信者が増えて行きました。少なくとも「わたしたち」は同じ信仰を持った仲間全部のことを包含しています。さらに、イエスさまは「天におられるわたしたちの父よ」と祈ることを教え、すべての人が神さまの子どもであることを皆に伝えました。また、「わたしたちの罪をおゆるしください」と唱えるとき、一人ひとりの罪もさることながら、加害者だけでなく、見て見ぬふりをしているわたしたちの罪ということも含まれています。ミサの最初に「全能の神と兄弟のみなさんに告白します」と回心の祈りを唱えますが、第二バチカン公会議後に「わたしは、思い、行い、怠りによって…」の「怠り」の部分が加えられました。見て見ぬふりも怠りでしょう。

もう一つ「主の祈り」で大切なことは、順番です。後半に「わたしたち」が出てきますが、前半では「み名」「み国」「みこころ」と祈っているように、「あなたの名前」「あなたの国」「あなたの心」ということですから、「わたしたち」のことを祈る前に「あなた」(神さま)のことを祈っています。祈りは神さまと話をすることですので、「主の祈り」は人間同士が話すときの模範でもあります。人間同士の話ができない人は、神さまとも話すことが難しいでしょう。自分の思いを神さまに言っているだけで、本当に神さまと話してはいないのではないでしょうか。祈りというのは、神さまにお話することではなく、神さまとお話することです。皆さまの生活の中にも「主の祈り」の心が浸透しますように…。毎日唱えていると、意味も考えずに唱えているかもしれませんが、一つ一つの深い意味や並んでいる順番を考えながら唱えることができますように。

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