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せきぐち – 2013年3-4月号

アレルヤ、復活の喜びの叫び

主任司祭 山本量太郎

主任司祭 山本量太郎

教会は四旬節の間、ふだんは毎日歌っている「アレルヤ」を、いっさい控える。正確には、実に46日間、アレルヤなしで過ごす。だからこそ、四旬節が明けて、復活徹夜祭でアレルヤ唱を歌うとき、それは喜びの爆発のようになる。アレルヤはまさに復活の喜びの叫びそのものである。

復活徹夜祭のアレルヤ唱がひときわ素晴らしく感じられるのは、もちろん久しぶりに歌うからでもあるが、私はむしろ、その歌詞が旧約聖書の詩編118からなっているからだと思っている。

詩編118、それはイエスが弟子たちとともに声を出して歌った最後の歌だと言われる。

最後の晩餐の後、「一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」とマルコによる福音書14章26節にあるが、それが過ぎ越しの食事であったとすれば、イエスと弟子たちが声をそろえて歌った賛美の歌は、必ずや詩編118で結ばれたであろう。

イエスは、どのような思いでその最後の歌を歌ったであろうか。この詩編は「恵み深い神に感謝せよ」で始まる。イエスは、迫り来る受難を前にして、そう歌ったのである。そして、「死ぬことなく生き長らえて、主のみわざを語り伝えよう。主は私を死に渡すことはなさらなかった」と続け、さらに、「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった」と歌い、「あなたは私の神、あなたに感謝をささげる」と結んだのである。

一般に言われるように「私の神、私の神、なぜ私をお見捨てになるのか」で始まる詩編22ではなく、捕まる直前に歌ったこの詩編118こそが、ゴルゴタの丘をのぼる間も、いや、十字架につけられた後でさえも、イエスの心の中で何回も繰り返されたに違いない、と私は密かに思っている。そうであれば、イエスは今わが身に起こっていることを通して、「家を建てる者の退けた石が隅の親石」となること、さらには十字架の死さえ超えて「生き長らえ、主のみわざを語り伝える」ことの確信を失うことはなかったであろう。

そのイエスの神への全幅の信頼は裏切られなかった。復活徹夜祭のアレルヤ唱は、まさにそのことを私たちに伝える。今まさに復活されたキリストが私たちの真ん中に立ち、共に歌っておられる、「私は死なず、私は生きる。神のわざを告げるために」と。

付記1 アレルヤは、「ハレルヤ」のほうが原語のヘブライ語の発音に近く、もともとは「主を賛美せよ」という意味である。

付記2 復活徹夜祭で、使徒書の朗読と福音朗読の間に歌われる「アレルヤ」は、日本の現行の典礼では、福音朗読の前に歌われる「アレルヤ唱」と解されているが、ラテン語の規範版では、使徒書の朗読後の「答唱詩編」という位置付けである。復活節中は、答唱詩編の答唱句を「アレルヤ」に置き換えることができる。

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