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せきぐち – 2013年3-4月号

四旬節黙想会:第一講話より

寺西英夫 神父

2月24日(日)に、四旬節黙想会が寺西英夫神父様のご指導で行われました。第二バチカン公会議の時代から教会とともに歩んでこられた寺西神父様のお話の概要をご紹介します。

神に心を回す

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。(マルコ1・14-15)

マルコ福音書は4つの福音書の中でいちばん最初に編集されたと考えられています。福音書は書き下ろし作品ではなく、資料を集めて編集したものです。マルコが最初にそれを試みて、語り伝えられた伝承を集めて、イエスの福音宣教の旅全体を彼の考えにもとづいて作っていきました。マルコ福音書は、ガリラヤにおけるイエスの福音のはじまりにあたって、その第一声は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」であったと紹介しています。

四旬節に入る灰の水曜日には、額や頭の上に灰を受けます。その時、司祭は「回心して福音を信じなさい」と言いますが、それは前述した福音書からの言葉です。新共同訳聖書では、「悔い改めて」と訳していますが、日本のカトリック教会は、特に第二バチカン公会議以降、「回心」という表現を用いてきました。改めるのではなく回すという回心には二つの意味があります。今までの自分を振り返り、至らなかったことを認めるという面と、これからどこへ向かうのか、どこへ心を回すのかという二つの面があります。反省するというよりも、もっとストレートに神のほうに、自分を向けることが強調されています。

神に向かい、イエスの歩いた道を歩く

四旬節のテーマはなによりもまず、回心です。わたしたちは神に向かっている。すべての存在は神に向かっているとわたしたちは信じています。万物は神さまからはじまり、神さまの中に完成すると信じていますが、人間一人ひとりの人生もその中にあるということです。わたしたちは、本来、神さまに向かったものです。アウグスティヌスは「告白録」のはじめに「神よ、あなたはわたしをあなたに向けてお造りになりました。だからあなたのところに行き着くまでは、わたしの魂はやすらぐことがありませんでした」と書いて、自分の魂の遍歴を綴っています。わたしたちは、本来、神さまに似せて造られたものであり、神さまに向かって歩む旅人です。だから、しっかりと神さまのほうに向き直りなさい、特にこの四旬節のはじめにあたって、もう一度、自分の生き方を神さまのほうにしっかりと照準をあわせなさいという意味でしょう。自分の救いということを考えて、もう一歩前よりも回心できないかなと思って、黙想会に参加していると思いますが、回心は自分のことだけではなく、必ず人を巻き込んでいきます。だからキリスト教が始まり、続いているのです。最初の回心は弟子たちでした。キリストと直接会って、いろいろなことを聞いて、たくさんのことを話しているのに、最後には逃げてしまったのです。ペトロなどは、あんな人知らないと言ったのです。そういう弟子たちがはじめに回心したのです。それは、イエスの復活の力です。イエスは復活して彼らの中に入った。彼らの心をつかんだ。彼らの心の真ん中に復活のキリストが入ってきて、彼らは回心したのです。ペトロの回心は弟子たち皆の回心であり、教会の回心であり、今も続いているのです。この四旬節の間にイエスの生涯をもう一度改めて思い起こしてみましょう。イエスはわたしたちの前を歩いてくださったのですから、イエスの足跡がどこにでもあるはずなのです。今までの人生もそうですが、わたしたちのこれからの人生のどこにでもイエスの足跡があるはずです。その後について行くこと、しかもイエスが同伴者として一緒に歩んでくださることを、わたしたちは信じていますし、そういう信仰でご聖体をいただいているのです。ですから、この四旬節の機会にもう一歩でもイエスの足跡を踏みしめるようにしたいと思います。一人の人がそれを踏みしめれば、それは必ず周りに伝わっていくのです。

キリスト信者は福寿草のようなものだと、わたしの尊敬する佐久間彪神父は言います。福寿草は雪の中で凍っている土を持ち上げるようにして、春に先駆けて芽を出すのです。冬のような世界の中で、もう春が来ている、神の国が近づいたとわたしたちはそう信じるわけで、福寿草のように春を信じ、春の中で生きていく、そうすると周りも暖かくなる。一人でも回心して花を咲かせれば、春がこの世界にやってくる、教会とはそういう使命を持っているのです。

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