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せきぐち – 2013年5月号

「友なるイエス」

主任司祭 山本量太郎

主任司祭 山本量太郎

谷川の水を求めて

「谷川の水を求めて」という典礼聖歌がある(144番)。確かにそういう題名は付いているが、それは単に歌いだしをそのまま題名にしただけであって、その聖歌の内容を的確に表したものとは必ずしも言えない。どう考えても、「谷川の水を求めてあえぎさまよう鹿」のことを歌った聖歌ではないからだ。あえて言えば、「谷川の水を求めてあえぎさまよう鹿のように」までは、その次の「神」にかかる枕詞のようなものなのであって、この聖歌の中心は、あくまでも後半の「神よ、わたしはあなたを慕う」にある。「あえぎさまよう」という訳自体も、「涸れた谷に鹿が水を求めるように」という新共同訳に比べて意訳し過ぎの感があり、かつ必要以上に強い印象を与えてしまっているような気もする。

みもたまも

「みもたまも」というカトリック聖歌がある(2番)。かつて最も愛唱された聖歌の一つであろう。この題名もまた、歌いだしからそのまま付けられているが、やはりそれだけでは内容を表しきれていない。身も魂(たま)も「どうするのか」までわからないと、内容は見えてこない。「身も魂も主に捧げ」までを題名にすればよかったのに、と思うことしばしばである。その歌詞を3節まで通して歌うと、とても味わい深いだけに残念に思う。

いつくしみふかき

「いつくしみふかき」という、だれでも知っている有名な讃美歌がある。もともとプロテスタントの「讃美歌」312番なのだが、そこには実は題名がない。「いつくしみふかき」は、その讃美歌集の「初行索引」に、その聖歌の「歌いだし」として記されているに過ぎない。カトリック聖歌集にも後に取り入れられたが、その657番には「いつくしみふかき」という題名が付けられている。しかし、くどいようだが、それも内容を端的に表すものではない。その続きの「友なるイエス」のほうに重心が間違いなくあるということは、英語の原詩を見れば明らかなのだが、既にできている旋律に歌詞を翻訳して当てはめることの限界としか言いようがないのであろう。この聖歌の口語化にチャレンジした「讃美歌21」という新しいプロテスタントの讃美歌集も、この点については、「いつくしみ深い」と「き」を「い」に変えることしかできていない。

「いつくしみふかき」という聖歌の土台には、イエスさまは私たちの友なのだ、という深い喜びがある。実に、イエスさまご自身がこんな私たちのことを「友」と呼んでくださっている。そして、イエスさまの「友」同士も、「友達の友達は友達」なのだ。「いつくしみふかき」は、結婚式や葬儀でよく歌われるが、それは、信者でない人でも一緒に歌える旋律だからというだけでは決してない。

新教皇フランシスコ

新教皇フランシスコが初めて人々の前に姿を現し、平易な言葉と柔和な表情で語りかけた映像を見たとき、私の脳裏をかすめた聖句の一つは、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15・15)であった。すべての人、特に貧しい人の「友なるイエス」を伝える教皇として、また、私たちのことを友と呼んでくださる教皇として生き抜かれるに違いない、そう確信している。

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