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せきぐち – 2013年8-9月号

「主の祈り」と「私たち」

繰り返される「私たち」

主任司祭 山本量太郎

主任司祭 山本量太郎

主の祈りの中でいちばん多く繰り返される言葉は「私たち」です。新約聖書の原語(ギリシア語)には、実に9回も出てきます。これをいちいち几帳面に「私たち」と翻訳していけば、さしずめこんなふうになってしまうでしょう。

「……私たちの日ごとの糧を今日も私たちにお与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人を赦します。私たちを誘惑に陥らせず、私たちを悪からお救いください。」

これではいかにもくどいので、現行の主の祈り(口語訳)は、苦心の末、5回しか「私たち」が出てこないように訳しています。ちなみに、文語の「天にまします」の中で「われら」は7回使われていましたが、それほど気になりませんでした。「われら」3文字と「わたしたち」5文字の差と思われます。

大切な言葉「私たち」

こんなことを、それこそ、くどくどと書いているのは、主の祈りを理解するうえで、「私たち」という言葉が、とても大切だからです。

私が神学校時代に受けた授業の中で、ネメシェギ神父さまという神学者が神学生たちに、主の祈りの中で大切な単語を三つあげなさいと言われたのを今でも鮮明に覚えています。ネメシェギ神父さまご自身による解答は、「父」「み国」そして「私たち」でした。三番目に「私たち」があげられたとき、当時の私はピンときませんでしたが、なぜか心に残りました。
そして、「私たち」の重要性は、主の祈りを一人で唱える時も「私たち」を「私」にけっして置き換えることができない、という事実に端的に表れている、と思うようになりました。

一人の時も「私たち」

一人で唱えるからといって、「私の日ごとの糧を今日もお与えください」と祈ったら、その瞬間、それは主の祈りではなくなってしまう、ということです。

そもそも、飽食時代の今の日本には、「私の糧を」と願う必要がまったくない人もたくさんいます。けれども、主の祈りを唱える人は、目の前にごちそうが出されているときも「私たちの日ごとの糧を…」と必ず祈るのです。

すべての人が「私たち」

主イエスは、神がすべての人の父であることを確信しておられ、私たちはその確信に心を合わせて、「天におられる私たちの父よ」と唱えるのですから、主の祈りの「私たち」は、最終的には、すべての人を包含しています。
この地上に飢えている人が一人でもいるかぎり、キリスト者は「私たちの日ごとの糧を」と、日々祈り続けるのです。

主の祈りで繰り返される「私たち」は、キリスト者の生き方の根本を指し示しているといっても、過言ではないでしょう。

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