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せきぐち – 2013年10月号

罪びとの祈り、主の祈り

主任司祭 山本量太郎

み前に立つ資格のない私たち

主任司祭 山本量太郎

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪びとの私を憐れんでください』」(ルカ18・13)。
人間がもし、自分の力で祈るのだとしたら、これ以上のことを、どうして祈ることができるでしょうか。そもそも、神の前で胸を張って祈る資格など誰にもありません。詩編にも「主よ、あなたが悪に目を留められるなら、だれがあなたの前に立てよう」(130)とあるではありませんか。

イエスの励まし

実に、主イエスは、そのような私たちに主の祈りを授け、「あなたがたも神に祈ることができる」と励ましてくださいました。しかも、その神に向かって「アバ、父よ」と呼びかけるように教えられたのです。これは当時の周囲の者にとっては、驚き以外の何ものでもありませんでした。

父ではなくアバ

旧約聖書の時代から、人々は神が自分たちの父であることを固く信じていました。「主よ、あなたは私たちの父です」(イザヤ63・16)とあるとおりです。でも、その父である神に向かって、おそれ多くも「アバ」と呼びかけるなどと考えたことはなかったにちがいありません。アバは、小さい子どもが自分の父親に向かって呼びかける小児語だったからです。
ですから、「父よ」という訳語は間違いではないけれど、原語のニュアンスをあまりよく伝えてくれてはいません。イエスが分かってほしかったのは、神に祈るときには、自分が子どものころ、父親に呼びかけたのと同じ言葉で祈りなさい、ということだったのではないでしょうか。

聖霊の働きのうちに

自分自身を見つめれば、もちろん、父である神の子どもとしてふさわしくない私たちには、神に向かって「アバ、父よ」と祈る資格など到底ありません。でも、そのように祈りなさいと言ってくださったキリストにひたすら信頼するとき、「父よ」と祈る勇気が不思議と湧いてきます。そして、そのように祈れる自分自身のうちに、「アバ、父よ」と呼ぶことを可能にしている聖霊の働きがあることに気づかされていくのです。

主の祈りをつつしんで

ミサの中で主の祈りを唱えるとき、司祭は昔から伝えられた言い方に従って、次のように招くことが多いと思います。「主の教えを守り、みことばに従い、つつしんで主の祈りを唱えましょう」。
ここで「つつしんで」と訳されている「アウデームス」は、もとのラテン語では「あえて……しようではないか」という強い意味を持っているそうです。そのニュアンスを大切にして説明的に訳してみると、「自分たちには神に向かって『父よ』と呼びかける資格はないけれど、主の教えを守り、主の言葉に従い、あえて勇気を出して、今日も主の祈りを唱えようではありませんか。」
どうやら私たちは主の祈りをすらすらと唱えすぎているようです。

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