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せきぐち – 2014年1-2月号

ぼくも塩、きみも光

主任司祭 山本量太郎

とにかく窮屈だった

主任司祭 山本量太郎

どうして僕は、キリスト教の家に生まれてしまったのだろう、それもよりによってカトリックの家なんかに。正直言うと、かなり大きくなるまで、心密かにそう思っていた。もちろん親に言ったことなど一度もなかったし、言える雰囲気でもなかった。

「地の塩」とか「世の光」とかいうキリストの言葉を聞かされるたびに、特にそう感じていた。「塩のように生きなさい」「光のようになりなさい」と、イエスさまからいつも言われているようで、とにかくとても窮屈だった。

自由に生きたい

「塩のように生きる」――目立たないように、いつも他人に奉仕して、自分の楽しみは後回しにしなければ……。

「光のようになる」――みんなの模範になるような生き方をして、「キリスト信者のくせに」なんて言われないようにしなければ……。

でも、そういうことは特別熱心な人、立派な人に任せておけばいい、自分はもっと肩の凝らない人生を自由に生きたかったのに、といつも思っていた。

目の前が明るく

それでも離れきれずに、教会にだけは毎日曜日、きちんと通っていた。

そして、そのおかげなのだろうか、ある時、聖書には「塩になりなさい」「光になりなさい」なんて書いていない、ということに気づいた。

どの聖書を開けてみても、「あなたがたは塩である」「あなたがたは光である」と書かれていた。

もし、そうだとすると、こんな僕に向かっても、イエスさまは、「塩である」「光である」と言っていることになる。こんな僕が塩なのか、人間はだれでも光なのか、と心の中でつぶやきかけて、本当にハッとした。そして、目の前が明るくなった。

かけがえのない存在

人間は塩なしに、光なしに、生きていけない。どちらもなくてはならないものなのに、日常生活ではほとんど意識されない。それと同じことではないか。周りがだれもそう思ってくれなくても、人間は例外なく塩のように、光のように、かけがえのない存在なのに違いない。

聖書の先生から教わったわけではないし、どの本にもそんな解説は書かれていないから、ひとりよがりの考えだったかもしれない。

でも、その時から、イエスさまの言葉は僕を縛りつけないで、逆に伸び伸びとさせてくれるようになったのだ。

そして今も、僕は信じている。

広大な全宇宙をお造りになった神は、このちっぽけな人間のことを、このつまらない僕のことを、塩のように、光のように、かけがえのない存在として、考えていてくださるに違いない、と。

*この文章は以前、「聖書と典礼」に掲載したものに手を加えました。

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