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せきぐち – 2014年7月号

愛の賛歌・小考

主任司祭 山本量太郎

主任司祭 山本量太郎

結婚式の時に

結婚の儀の結びに、新郎新婦、二人の証人、そして司式司祭は、結婚証書に署名します。その間、オルガンの奏楽とか聖歌の独唱などがあります。もう昔のことですが、私がその当時いた教会では、愛の賛歌をうたうことになっていました。あるカップルにその旨お伝えしたら、「教会でも愛の賛歌をうたうのですか」と問い返されてしまいました。聞いてみれば、彼らが思っていたのは、「あなたの燃える手で…」で始まる全く別の歌でした。 愛の賛歌という名前の歌は数々あるけれど、最も数多くうたわれ、最も有名なものがパウロの愛の賛歌であることは間違いありません。なにしろ、2千年近く絶えることなく受け継がれて今日に至っているのですから。

コリントの信者たちへ

パウロの愛の賛歌は、新約聖書に載っています。彼がギリシアのコリントの町にある教会の信者たちへ送った手紙の一部なのです(一コリント13章)。パウロは言うまでもなく、キリスト教が全世界に広まるにあたって第一の貢献をされた偉大な人物です。屈指の理論家であり、大秀才でした。事実、彼の文章には難解な箇所も少なからずあるのですが、そのパウロが愛を語る段になると、難しい言葉を一つも使わず、分かりやすく、しかも詩のような文体で人の心に響く文章を書いたのです。

定義ではなく、生きること

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」と、15の愛の定義を列挙した上で、「愛は決して滅びない」と結びます。 愛の定義と言っても、AはBである、というような定義ではありません。愛があたかも生きている人間であるかのように語られるのです。愛とは定義するものではなく、生きてはじめて意味のあるものだと言わんばかりです。 そうなのです。私はある時から思うようになりました。パウロが「愛は……」と語るとき、彼の中には一人の人物が前提になっていたのではなかろうか、と。

キリストをたたえる歌

それは言うまでもなく、イエス・キリストです。そう思って愛の賛歌を読み直してみればみるほど、確信が深まってきます。パウロほどの人物であっても、愛を自分に置き換えて「私は忍耐強い。私は情け深い。……」と書くことなどできるはずがありません。愛の賛歌の「愛」を置き換えることのできる人物はイエス・キリストしかおられないのです。「キリストは忍耐強い。キリストは情け深い。……」。 そのキリストを通して、神の愛は私たちに余すところなくあらわされました。神は愛なのですから、実に、「神は忍耐強い。神は情け深い。……」と愛を神に置き換えることができるのです。 愛の賛歌と言いますが、それは結局、キリスト賛歌なのであり、また、神を賛美する歌でもあるのです。

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