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せきぐち – 2015年1-2月号

荒れ野を行くときも

主任司祭 山本量太郎

山本神父様神ともにいまして

「神ともにいまして」という、カトリック聖歌集にも取り入れられた有名な讃美歌があります。讃美歌というより、世界でもっとも多く歌われる送別の歌と言ったほうがいいのかもしれません。私はいつのころからかその2節を特に心の中でしばしば口ずさむようになりました。 「荒れ野を行くときも、あらし吹くときも、 行く手を示して、絶えず導きませ。」(カトリック聖歌660番2節)

行く手を示して

正直なところ、荒れ野を旅してみたいと思ったことは一度もありません。いわんやあらしよ吹けなどと願ったこともありません。でも、長い人生の旅路の途上にあって、荒れ野を歩かなければならない時がやってきてしまうのです。あらしの中を前進しなければならない時も必ず訪れるにちがいありません。だからこそ、この讃美歌の歌詞の続きがこうなっているのだ、と思うようになりました。 「行く手を示して、絶えず導きませ」 人はだれも荒れ野を好きになどならなくていいし、あらしに敢然と立ち向かう勇気を持ち合わせる必要もないのです。ただ、そうなってしまったとき、「行く手を示して、絶えず導いてください」と祈れますように、と願う心だけは持っていたいものです。

神の守り、離れざれ

荒れ野で誘惑を受けられたイエスに天使たちを送って仕えさせた神は、わたしたちが荒れ野のど真ん中に置いてきぼりにされてしまったようなとき、あるいは、あらしが吹きすさぶ中で立ちすくみ何も見えなくなってしまったとき、必ず助けを送って守らせてくださるにちがいありません。「神の守り、汝が身を離れざれ」というこの讃美歌の各節の結びは、その確信に満ちているのです。

信仰の道

四旬節も間近となりました。四旬節は復活祭に洗礼を受ける方々の最後の準備期間です。洗礼志願者の皆さんのために特に祈りましょう。 洗礼を受けて信者になっても、その人の行く手に荒れ野がなくなるわけではありませんし、あらしも結構吹くことでしょう。あら不思議というようなことは何一つ起こらないと考えたほうがいいのかもしれません。自らの心の中にも、家庭の中にも、社会の中にも、そして教会の中にも、荒れ野はあり続けますし、あらしは吹き続けるのです。それでも、はっきり違います。行く手を示して絶えず導いておられるお方としっかり結ばれているのですから、神の守りが離れてしまうことは決してありません。私たちが神の示してくださる行く手に向かって進んでいくことができますように。

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