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せきぐち – 2015年3-4月号

ジョセフィーヌの鐘

今年2015年は、長崎での「信徒発見」から150年の記念の年です。1865年3月17日、献堂から1か月が経ったばかりの大浦天主堂で、10数名の浦上信徒がおもむろにプティジャン神父に近づきそっと言いました。「サンタマリアのご像はどこ」。彼らは、迫害の中にあっても保ち続けてきた自分たちの信仰を司祭に告げたのです。

大浦に立派な聖堂が建てられたことに力づけられた信徒たちは、徐々に、今までにない大胆な行動をとるようになります。その最たるものが、浦上でのいわゆる「自葬事件」です。信徒たちは、無理やり帰属させられていた檀那寺を無視し、キリスト教の祈りをもって死者を送ったのです。この事件を契機に、各地で「崩れ」が起きることとなります。「崩れ」とは、信徒の一斉検挙によって、その組織が壊滅的な打撃を受けることです。捕縛された信徒たちは、過酷な拷問によって棄教を迫られ、幼い子どもも含めて、多くの殉教者が出ました。

明治政府が江戸幕府から継承したキリスト教弾圧は、非人間的行為として諸外国から厳しく糾弾され、ついに1873年、キリシタン禁制の高札は撤去されました。日本人への宣教が公に認められるようになったのです。再宣教――フランシスコ・ザビエルによって1549年に最初の種が蒔かれた日本の教会は、ここに第二幕を上げることとなったのです。
1853年の浦賀への黒船来航以降、日本において最初に建設されたカトリック教会は、横浜居留地80番地(現山下町80番地)の聖心天主堂です。1862年1月のことでした。この時代は前述のとおり日本人への宣教は認められていませんでしたので、それはあくまでも外国人居留者のための教会でした。

東京に最初に教会が建てられたのは1874年11月、つまり禁教の高札撤去の翌年です。1866年に来日したマラン神父が築地居留地の28、34、35、36番地(現明石町5番地)を借り受け、聖堂建設に着手したのです。それは、横浜、長崎大浦、横須賀、神戸に次ぐ、日本で5番目の教会でした。

1877年7月に日本北緯使徒座代理区長として日本に赴任したオズーフ司教は、着任とともに司教座を、横浜からこの東京の築地へと移しました。しかし、当時の築地には本式の聖堂はなく、大広間が仮聖堂として用いられていました。そこで、同年12月から本格的な煉瓦造りの聖堂建設が始まり、翌1878年8月には盛大な献堂式が挙行されたのです。

せきぐち2015年3-4月

さて、ジョセフィーヌの鐘は、この東京の司教座のために寄贈されたものであると推測されます。

ジョセフィーヌの鐘には三つの銘文が陽刻されています。その銘により、この鐘は《1877年にボアソナード夫妻によって寄贈》され、《アデレード・ジョセフィーヌという鐘の名は、レオン・デュリー、ジョセフィーヌ・デュリー夫妻によって命名》され、さらには《1957年に関口教会信徒の寄付により東京で改鋳》されたことが分かります。

ギュスターヴ・エミール・ボアソナードは、明治政府により法律顧問として招聘され、1873年に来日したフランス人法学者です。不平等条約撤廃のために近代法の整備が急務であった当時の日本に多大なる貢献を成した、「日本近代法の父」と呼ばれる人物です。

オズーフ司教は築地司教座聖堂建設のため、母国フランスの国民に寄付を募っていました。これを知ったボアソナードが、東京に司教座聖堂が建てられること、つまりは日本での本格的な宣教が始まるということを喜び、鐘の寄贈に至ったのではないかと想像されます。

レオン・デュリーは、同じくフランス人で医師です。1861年に江戸幕府は函館に病院建設を計画、駐日フランス公使に医師の斡旋を求め、その際に彼が選ばれ来日しました。しかし病院建設は実現せず、デュリーは長崎でフランス領事に任ぜられました。この地でデュリーはプティジャン神父らと親交を結び、大浦天主堂の献堂式にも参列しています。

その後フランス政府によって長崎領事館は廃止され、デュリーはアフリカへの転任を命じられたのですがそれを拒否、京都仏学校でフランス語教師を務めることとなりました。京都仏学校が廃止されたのちには、開成学校(現東京大学)、さらには東京外国語学校において教授職を務めています。この東京での生活の間に、オズーフ司教やボアソナードとの交わりがあり、夫妻で鐘の命名者となったようです。鐘が寄贈されたと同年にデュリーは母国へと戻ったのですが、その生涯の終わりまで、変わることなく深く日本を愛していたことが伝えられています。

上記から理解されるとおり、ジョセフィーヌの鐘には、日本の近代化のために力を尽くし、多くの日本人から尊敬される外国人の名が刻まれているのです。近代化ということにとって信教の自由とは、当然ながら欠くことのできない重要な要素です。長らく外国に対して門戸を閉ざし、キリスト教徒が迫害を受けていた日本という国において、キリスト教を公然とのべ伝え、その国民と信仰を分かち合えること、そのことに彼らがどれほど喜びを感じ神に感謝をささげたか、それは想像に難くありません。

ジョセフィーヌの鐘は、同じくフランスから前年に渡ってきていたルイーズの鐘とともに築地カテドラルの鐘楼に設置され、以後40年以上、東京の空には、この二つの鐘によって奏でられる荘厳な音が響いていました。

1891年、日本には4司教区(東京、函館、大阪、長崎)制が敷かれ、使徒座代理区が司教区に昇格、東京は首都大司教区とされました。司教座はその後1920年に関口へと移されますが、そのときカテドラルに寄贈された鐘であるジョセフィーヌも、ルイーズを築地に残し、関口の地へとやってきました。ジョセフィーヌは、1923年の関東大震災でも被害を受けず、太平洋戦争時にも「ボアソナードゆかりの品を鋳つぶしてはならない」という明治憲法記念会の申し入れによって金属供出を免れたのですが、1945年5月の空襲で聖堂が焼け落ちた際に、鐘に火が入ってひび割れを生じてしまいました。

1957年に、当時の主任司祭の荒井金蔵神父を中心として改鋳が計画されました。関口教会信徒の資金協力を受け、2年後の1959年、ジョセフィーヌは原形そのままに甦りました。そして、ルルド脇に建てられた林幹夫氏(関口教会信徒)設計による鐘楼に彼女は据えられ、再び澄んだ音を戦後の東京の空に響かせたのです。

260年もの長きにわたって続いた禁教がついに解かれ、日本再宣教が開始されてから経過した140年以上の歳月、ジョセフィーヌは、ほぼそれと同一の時の流れを日本の信者とともに過ごしてきました。そして今、信徒発見150年の、そして東京カテドラル関口教会現聖堂の献堂50周年の記念の年に、その美しい音色を再度響かせるというのは、日本の教会組織の基盤を造り、その成長を支え、物的、人的、霊的、あらゆる面において惜しみない援助を注いでくださった数多くの人々への感謝を示すことともなる、まことに喜ばしい事業ではないでしょうか。歴史の貴重な証言者として、これからもジョセフィーヌには、関口の、東京教区の、日本の、一人ひとりの信者を見守り続けていってほしい、そう願わずにはいられません。

(本稿は、塚越則男さんから多数の資料をご提供いただいたうえで、編集部にてまとめました)

 

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