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せきぐち – 2016年3-4月号

四旬節黙想会報告 

2016年2月21日(日)、嘉松宏樹神父様のご指導のもと、「いつくしみの特別聖年」にあたっての四旬節黙想会が行われました。以下は講話の概要です。

 

いつくしみとは

「いつくしみ」とは子どものことを思うお母さんが、胎を揺さぶられるような思いになることに例えられる。お母さんが赤ちゃんをおなかの中に宿していたときの愛しく思う思い、赤ちゃんが生まれてからもおなかを痛めた子どもが、生きていくその姿を見て、一喜一憂するその思い、その時、おなかが動くその思いが「いつくしみ」。「いつくしみ」はやわらかくて、あたたかくて、ふわふわしていて、だれも何も心配いらないというような感じではなくて、すさまじいもの。「いつくしみ」はわたしたちを揺り動かす挑戦。神はそういう思いで、いつもご自分を揺さぶられながら、わたしたちを救おうとしている。

 

神の名はいつくしみ

神の名前が「いつくしみ」というだけでなく、神の本質が「いつくしみ」だということ。はらわたが動いて、いてもたってもいられない思いで人間を愛しく思い、その神の思いがあふれた時に最初に誕生したのが人間。神のあふれる愛があふれてこぼれて、ご自分の似姿を創りだした。神にとっては、怒りを抑えるよりもいつくしみを抑える方がもっとむずかしい。

 

御父のようにいつくしみ深いものとなる

人間は神のあふれたいつくしみから生まれたものだから、どこかにいつくしみの種を持っている。わたしたちはいつくしみの種をもうすでに与えられている。なぜなら、わたしたちは神のいつくしみから生まれたものだから。全能である神をまねるようにというわたしたちに対する大きなチャレンジ。

 

イエス・キリスト 父のいつくしみのみ顔

いつくしみ深い神はその顔をイエス・キリストにおいてわたしたちに見えるものとなさった。神のいつくしみにすべてを委ねてよいのだということを生きて見せた方が、イエス・キリスト。イエスはいつくしみについて語ることはせず、直接いつくしみを見せ、触れさせてくださる。(ex.マルコ1・40-45、2・1-12、ルカ7・11-17、10・25-37、15・11-32、19・1-5、22・54-62、23・39-43、ヨハネ8・1-11、11・28-44)ご自分の生き方、ご自分の存在を通して、わたしたちをいつくしみに触れさせてくださる。

 

いつくしみのわざの実践

イエスに従いながら「いつくしみ」を学んでいく。キリストに似た者になって、わたしたちの中の「いつくしみ」の芽を育てていく。そのようにしていつくしみは育っていく。それを開花させていくとき、それは兄弟(=隣人)に対してどのような態度を示すかで判断できる。神がこの世を救う、その救いの働きにわたしたちも協力者として担ぎ出されている。わたしたちは神のいつくしみを知ったのだから、神のいつくしみの流れを世にもたらすために、神のいつくしみの手になる、足になる、そのように求められている。身近な路上に人が倒れていないとしても、世界に存在する不公平、富や分配の不公正、ニュースで伝えられる難民の問題、病者や高齢者がさげすまれている社会のありかた、そういうことをいつも自分たちの意識の中においておくこと。わたしたちが神のいつくしみのしるしとして、いたわりを示すことができるものであるか、それがいわば、この特別聖年に向けられた問いである。いつくしみのしるしでないキリスト者が存在するということは、教会にとってスキャンダルなこと。信者同士の関係、司牧に対して、社会に対して、神のいつくしみのしるしとなること。いらいらっとしたら「いつくしみ」とくりかえし唱えるように心がけたい。いつくしみはすさまじいほどの愛であり、わたしたちの自己中心的なあり方、自己満足なあり方からどれだけ人をゆるせるか、どれだけ人を信じられるか、どれだけ人のことに関心をもつことができるかということへの挑戦。「いつくしみ深く、御父のように」毎日の生活の中でこのことにチャレンジしてみよう。

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