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せきぐち – 2016年10月号

弱さを通して働く神様

助任司祭 古郡忠夫

9月18日。敬老の日を迎えて、関口教会では「長寿の集い」のお祝いがおこなわれた。久しぶりに教会に来ることのできた方、懐かしい方。教会で活動をともにしてきた方々が久しぶりに再会し、喜びに溢れる会となった。わたしは、参加された高齢の方々を励まそうと声をかけてまわったが、かえってたくさん励まされてしまった。「神学生の方?」「えー、神父様なのー。」「あなたは声が大きくていいわね。」「がんばってね。ずっと続けてね。」たくさんの長寿の方々とお会いしながら、自分の召命(羅:vocatio,英:vocation,神の呼びかけ。わたしは、神様から司祭になることを呼びかけられたと感じ、教会で生きることを望んだ)のきっかけについて考えることになった。自分の召命の何よりのきっかけ、最初のきっかけは高齢の祖父であった。

祖父は、戦前に築地教会で洗礼を受けていた。親戚の信者の人に教会に連れて行ってもらったことが洗礼のきっかけだそうだが、祖父曰く、教会には素敵な食べ物があって、若くていつもお腹が空いていた時代、それらの食べ物に惹かれて、教会に足しげく通ったのだそうだ。祖父は、戦争で先妻を亡くし、祖母と結婚している。わたしの父親は8人兄弟の末っ子であったので、祖父はわたしが生まれたときには、既に高齢、75歳くらいであった。さらに、祖父は深川で材木屋をやっていて、木を切り続け、大きな音を聞き続けたがために、耳がほとんど聞こえなくなっていた。

下の階に祖父は住んでいたので、わたしは、毎日のように祖父、祖母のところへ遊びに行った。祖父は毎日、決まった時間に家庭祭壇でお祈りをしていた。ロザリオを唱え、祈祷書を唱えていた。わたしは祖父の後ろ姿をじっと見ていた。祖父はわたしに気がつくとわたしを迎え、一緒にお祈りをした。祖父の本気で祈っている姿、神様に向かっている姿を見て、わたしは、「あぁ神様という方はたしかにおられるんだ。」「すべてを超える絶対者がいるんだ。」と、子どもながらに悟った。祖父と外に出かければ、祖父は必ずホームレスのおじさんに声をかけていた。「元気? だいじょうぶ?」と話しかけるのだが、祖父は如何せん耳が聞こえないので、わたしがいつも祖父とおじさんの通訳になった。そうやってわたしは、はっきりと大きな声でしゃべることができるようになり、そして、いろいろな人と自然に話ができるようになった。

わたしは、高齢の、耳の聴こえない祖父を通して、神様という方がおられることを知った。祖父は、日々の老いの中で、神様により頼んでいたのだと思う。だんだんと衰えていく自分を前に、神様に委ねるしかない、そういう気持ちだったのだと思う。でも、その姿が、子どものわたしに何か感動を与えたのだ。

わたしたちは、自分という存在があまりにも弱いものであると度々感じながら生きている。そして、実際にわたしたちは弱い。でもそんなわたしたちを神様は用いてくださるのだ。神様は高齢の、耳の聞こえない祖父を使って、わたしに召命を、素晴らしい希望の道、喜びの道を与えてくださった。 

関口教会に来て、4ヶ月。関口教会の力になれているだろうかと自問する日々が続いている。わたしがいなくとも関口教会は何事もないかのように普通にまわり、動いていく。でも、ここにたたずみ続けられるだけ、たたずみ続けようと思う。わたしがするのではなく、神様が弱いわたしを使ってなさるのだから。

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