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せきぐち – 2016年10月号

「長寿のお祝い」にお招き頂いて

テレジア 田村浩子(豊島地区)

今年も9月18日(日)10:00のごミサとケルンホールでの祝賀会にお招き頂きまして本当にありがとうございました。聖堂では前列でごミサに預り、神父様方のご所作を拝見し、感慨も一入(ひとしお)でございました。祝賀会もお若い方々が前々からご準備くださり、今年は特に、今はペトロの家おられる澤田神父様、市川神父様、寺西神父様、藤岡神父様、そしてSr.中島もお呼びくださるとのことで、参加された神父様方と昔懐かしく楽しくお食事を頂きながら、教会学校のお子様たちから歌のプレゼント、プロの方のソプラノ独唱もすばらしく、特に、「西川神父様と歌おう♪」では「東京ラプソディー」「長崎の鐘」「白い花の咲く頃」「憧れのハワイ航路」と、西川神父様の朗朗と響くお声に、若い頃の元気がよみがえるようでした。

現実にかえりますと、歳月は光陰矢の如く過ぎ去り、思いもかけぬ年齢になっておりました。この頃思い出しますのは、長男が学ばせて頂いた高校の母の会で、当時の校長先生(神父様)がテキストにされた本の中の一冊、『人生の秋に』(ヘルマン・ホイヴェルス著)の中の詩「最上のわざ」です。この詩は旧約聖書「コへレトの言葉・12章」から導かれていて、「人は手で自分と自分の物を守り、働くのですが、年をとるとその手や腕は弱ってくるというのです。また、年をとるとまず足が弱りかがみこんでしまいます。歯も抜けていき、ものもよくかめません。視力も弱まり眼はひっこんでしまいます。耳もだんだん弱くなり、小鳥のさえずりより細くなり、ついに消えてゆきます。こうなると心臓は弱くなり、息苦しくなり、老人は『のぼり道を恐れ、長い道』が歩けなくなります。」それにしても気の毒な状態です。どのような心で、人はこの老境をむかえるべきでありましょう。(同著書75頁の要約)

初金ミサ後の講話で、西川神父様が「キリスト者たるもの、年をとってあちこちが痛んでも、ニッコリとしていなさい」とおっしゃいました。思わず背筋が伸びました。

「最後までできることは手を合わせて祈ること」。夫を送り十年の歳月が流れました。

後期高齢期となり、加齢により足腰が不自由になって、教会のご奉仕でも机や椅子を動かしたりお茶を運んだりすることができなくなりまして、只今は事務室で座って出来るご奉仕と、東京大司教区の日曜日と祭日の夕方5時からの「晩の祈り」の先唱者グループに入れて頂いております。

神様のお導きで同じような境遇の友5人と修道院の「教会の祈り」に伺っております。那須の聖母修道院、今は閉じられてしまった諏訪富士見のベネディクト修道院など。修道士やシスターの方々が捧げる「教会の祈り」に魅せられてしまいました。東京大司教区では日曜日と祭日の夕方5時に「晩の祈り」が始まり、信徒も参加させて頂けることを本当に有難いことと感謝致しております。

「晩の祈り」で「マリアの讃歌・マグニフィカト」を唱えるとき、私たちの聖母マリアが天使とともに現れ、父である神を讃美されておられるように思います。

「マリアの讃歌」は、おとめマリアの汚れのないみ心から発したもの、マリアをとおして預言的なお言葉を宣べられたのは、イエスの聖心のように思えます。そしてマリアを燃え立たせているのは、神の愛にほかならないのではないでしょうか。

 ルカ1:26 天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされ、イエスの誕生が予告されます。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」とこたえます。この尊いお言葉は私をおおらかな神の愛につつみ安心して生きていけるという実感に導いてくださいます。どうかいつも神様を賛美し、感謝し、ゆるしを乞い、そして神様に願っていくことができますように。

 

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