お知らせ

どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。(Ⅱテサロニケ1:11)

2019年11月02日

西川神父

わたしたちの暮らす現代社会はネットの普及によって様々な情報が満ち溢れています。最近ではフェイクニュースという言葉が生まれるぐらい、情報の信憑性が疑われていく社会となってきました。裏を返せば、情報に確証をもてなくすることで、わたしたちに何が真実なのか容易くわからなくしてしまう社会、恣意的に世論を誘導しやすい社会になっているのかもしれません。いわゆるネットの炎上なども、不確かな情報のなかで、道義心に訴えかけられ煽られていく中で起きる出来事の一部と見ることもできるでしょう。

第2朗読で読まれた第2テサロニケ書は、パウロの死後の比較的早い時代に書かれたものであると言われています。この手紙を読んでいくと、主の来臨を待ち望む教会にあって、主の日(主の来臨)が既に来てしまっていることを言いふらすことで教会に動揺と混乱がもたらされていた背景がみえてきます。当時の教会の人々が直面したことは今のわたしたちにも通じていることではないでしょうか。この手紙は何が真実なのかわからない疑心暗鬼のなかで教会を分断させていく力が働いている時に告げられていく手紙と言ってもいいでしょう。その中で、パウロの言葉として次のように告げていきます。

「どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。」(Ⅱテサロニケ1:11)

この言葉は神の呼びかけに応えたとき、わたしがそれにふさわしい者へと自分を高めていくことよりも、神がこのわたしをそれにふさわしい者へと導いてくださっていることを確信しています。

パウロは、ダマスコでの回心の出来事の中で復活した主に呼びかけられて、その生き方を大転換させた人です。自分の能力やキャリアから、神からの呼びかけとしての召命に応えようとしたとき、わたしたちは社会の現実の前で自分のそれまでの思い、言葉、行いに縛られ、自らの不甲斐なさに諦めていくかもしれません。もしかすると、自らの力で向き合うしかないと思えば思うほど社会の枠組みの中でうずくまるしかない存在になってしまうかもしれません。そこから立ち上がることができた人がパウロという人です。だからこそ、教会を迫害する者から宣教する者へと大きく自らの歩みを変えることができたと言っていいでしょう。そのパウロの言葉として教会が書き残していることの意味を考えていくと、今日の福音にもつながっていくのではないでしょうか。

今日の福音は、エルサレム入城を目前とした旅の最後の物語です。ザアカイという徴税人の頭とイエスが出会っていきます。背の低いザアカイは群衆に遮られ、イエスを見ることができないとルカ福音書は状況を報告します。イエスがどんな人か見ようと渇望したザアカイはいちじく桑の木に登っていき、そこでイエスから呼びかけられていきます。その描写はとてもシンボリックに語られます。何故、ルカ福音書が金持ちに対して厳しい見方を次々と語っていったのかは、この物語へ向けた下慣らしだったのではないかと思えるほどです。徴税人の頭として、社会の中で忌み嫌わてしまう生き方に諦めてうずくまりはしなかったザアカイ。彼は真実を渇望し信頼できるものに出会い、立ち上がっていきました。わたしたちがどんなに社会の中で位置づけられようとも、出会いによって大きく自らの歩みを踏み出すことができることを物語られていきます。わたしたちもまもなく来られる教皇フランシスコと出会うことによって気づき、神の呼びかけに応えていくことができますように。

 

 

天本昭好 神父